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2006年3月30日 (木)

FMラジオの仕事

ほんま、毎日があっと言う間に過ぎて行く・・・^^;
ほぼ1週間ぶりの更新です・・・今回はラジオの仕事の話。

92年2月に、CMなどでお付き合いのあった制作会社から、
「αステーション(FM京都)で特番がある。ついては局の担当者が、
一度声を聞きたいといっているが、どうか?」というお話をいただきました。
バージンレコードがスポンサーの、昼間4時間やったかな?
長丁場の特番のお話でした。

2月のとある日に、京都は北山にあるαステーションまで行きました。
1Fにあるスタジオで、本番用の原稿を読み、ボイス&トークの雰囲気チェック。
CMの仕事でも「DJ風に」というオーダーはありましたし、
学生の頃からの真似事や、小林克也のDJコメントを起こし、
リズムや口調を真似たものを録音したりしてましたから、
それなりに「DJのトーク」というのは身についてました。
結果は、OK!いうことで、その特番をさせてもらうことに。

2月のとある、とある土曜日やったか日曜日^^;
オープニングトークを乗り切ればノッていけるのは分かってたので、
緊張しながらも気合一発で、ナイスな滑り出しをすることができました。
本番に強いタイプです、私^^

途中、中だるみもありましたが、なんとか長丁場を凌ぎました。
特に音楽に詳しいわけでもないので、原稿は用意されたものでしたが、
それが良かったのだと思います。なにせナレーターですから^^;

「他人が書いた原稿を、自分なりにアレンジはしつつも、
自分の言葉で話しているように読む」というのが、
僕らナレーターに期待されるところですから。
それはつまり、「番組作りにおいて、演出上の計算がたつ」
ということだと思います。

次回もラジオのお話を。

2006年3月24日 (金)

経験がトレーニングになる

ナレーションの仕事をしていて、あの頃よく考えていたこと。
それは、CMの仕事以外の、企業紹介や建設記録ビデオなど、
あまり情緒のない文章を、いかに情感豊かに読めるようになるか、
ということでした。
もちろん、建設記録や、機械の仕様説明ビデオ、あと医療ものなどは、
情感を込める必要もありませんし、実はかなり難しい。
それでも、「そこはかとなく滲み出る」情感は、出せるようになりたい、
と思ってました。

あの頃の僕のナレーションは、元気というか、声を張った、強い系の
ナレーションで、とりあえずは凌いでいたように思います。
細かな情緒表現はまだまだでしたし、静かな感じで、いいナレーションは、
したくてもできませんでした。

専門的な話になりますが、おかしなもので、一度ナレーションの方向、
僕で言うと「張り系」「強い系」でやってしまうと、修正がきかなくなるんです。
なんというのかな、頭では分かっていても、体が言うことをきかない、
という感じでしょうか。

それまでの技術の蓄積が「張り系」「強い系」のものですから、
本当はもうちょっと力を抜いて、いい感じのボイスレンジでナレーションしたい
のですが、いざ仕事が始まり、ディレクターから合図がきたり、指示が来ると、
やっぱり、それまでやってきたやり方をやってしまう。
怖いんですね、ちょっと違う方向に持っていって、NG出されるのが。

ただ、ラジオCMの現場では、
それこそ色んな「役」をやらせてもらってましたから、
それなりに技術はストックされているはずなんです。
でも、勝手が違うと、どうしても出せない。

人間の心理とはおかしなもの、というか不思議なものです。
脳が信号を出して体は動く、とするなら、
その信号をどう出していいのか、どこかまだ線が繋がらず、
信号の出し方が頓珍漢な状態だったのでしょう。
だから、人間には「慣れ」というものが必要で、
さらに、リラックスした心理状態が大事なんだということでしょう。

先のWBCでも、守備には定評のある選手がプレッシャーでエラーする、
信じられないことが起こる。時に、それまでスムーズだった信号の流れが、
混乱してしまうということなんでしょう。

2006年3月22日 (水)

「不安」とともに生きる

1991年の年頭からフリーとなって2ヶ月。
あの2ヶ月くらいは、どんな仕事をしていたのか、
どれくらいの仕事の量だったのか、記憶にありません^^;
ぼつぼつやってたのやろなあ。
だいたい、月に10本もあれば「仕事したかな」てな程度で、
それほどガンガン来るような状況でもありませんでした。
たぶん、5本とか、6本とか^^;

1月、2月は、業界的にも仕事があまり動かない時期です。
2月の後半くらいから3月にかけては、年度末ということで、
広告予算を使っていこう、新年度に向けて新しい広告をしよう、
リクルートもあるし・・・など、業界が活発になります。
その流れに乗ることはできました。
2月後半くらいから、仕事の依頼が増えたように記憶しています。

「俺、やるやん!^^」「俺、いけるやん!」てなこと思ってたかなあ^^;;

時代はバブルが弾けたとは言え、まだまだ景気のいい時代でした。
その流れにも乗ることができ、その後順調に仕事をしていくことが
できるようにはなったのですが、不安は抱えたままでした。

仕事のない日が2日、3日と続くと・・・「うわ、きつぅ」
GWの頃は、さすがにドバーッと休みばかり・・・「しやーないけど、ヤバイわ」
で、また仕事が入りホっとするのですが、
7月から8月にかけて、1週間、一切の仕事がない期間を経験しまして、
「ええい、もうどうでもええわ!」と開き直りました。
それ以降、気分的には楽に。でも「そこはかとない不安」は、常につきまとう・・・。
ただ、贅沢は言えないほど、順調にキャリアを積んでいくことになります。
ありうがとう!あの頃!!^0^

2006年3月20日 (月)

フリーランス、スタート!

前回、前々回と同じものをコピペしたようです^^;
うっかりさんやわぁ><1週間ぶりの更新となりました。

1991年1月(たぶん^^;)、目出度く?フリーになりました。
前年の年の暮れ、年賀状を兼ねて、「フリーになりました!」葉書を
300通ほど出しました。
一応「営業活動」的なことだったのですが、あれやこれや、
どうしようかと考えた挙句、まずは葉書で通知、をすることにしました。

これで仕事が来ないようなら、次の手を考えなアカンなあ、と思いながら、
「営業活動」に抵抗感も持ちながら、
「これで仕事がけーへんかったら、わしの負けや」と理屈をつけながら、
静かに年が明けるのを待ったものでした。

正月はどこで過ごしたんかなあ^^;
実家には2日か3日の日に行ったと思いますが、
31歳の畑中は・・・初詣にも行ったと思いますが、
いったい何をしていたのか記憶にない^^;

そうこうしているうちに1週間が過ぎた頃、仕事の依頼が!^0^
神戸での仕事でした(会社の名前は覚えていない)。
知り合いのディレクターが、制作会社に言うてくれたみたいでした。
あの頃は、これでも思っていたのです。
「フリーになって初めて仕事をくれたこの日を、この人達を忘れまい!」と。
嘘やん!!^^;忘れまくりやん!もうしわけないT0T

その後、仕事は順調に・・・と言いたいところですが、
業界的には暇な時期でもあり、ポツリポツリと仕事は入るものの、
「はぁ~、これからどうなるんかいな」と考えざるを得ない日々を
過ごすことになります。

2006年3月13日 (月)

フリーになる!

プロダクションに所属して、3回目の秋。
どうも、右から左に仕事させられてるような思いになりました。
ストレスもあったのでしょう。コミュニケーションがあんまりない現場。
どうも「俺は音声機械か?」と感じてしまってました。

僕らの仕事は、多くは「初めて」会う方々との仕事になります。
もちろん、ディレクターなど一部の人とは、2回目、3回目という時も
ありましたが、それでも現場での会話は表面的な、味気のないもの。

また、ほとんどの場合、現場にはクライアントが立会います。
CMの仕事は、クライアント、広告代理店、制作会社の方々が現場におり、
コメントチェックや、方向性のチェックなどを行います。
シリアスな空気がスタジオ内を覆う・・・^^;

クライアントチェックが入った場合などは、結構待たされることもある。
その度に、気持ちをON・OFFする。
これが結構ストレスになりまして、こんな僕でも自律神経のバランスを
ちょいと崩しました。体温調整が狂った・・・。
その頃は、まだ「自律神経」の狂いに対し、自覚はありませんでしたが、
後に「どうも、そんな感じやわ」と分かることになります。

行く先々で、あんまり自分の居場所が感じられない。
マネージャーがいて、守ってくれるわけでもない。
『なんか、いややなあ』と思い始めました。
『鵜飼の鵜やないねんから』とも思いました。

そして、この世界に来て、3日目の冬のある日、
「社長、フリーになりますわ」と伝えることになります。
「フリーになんかなっても食えませんよ」と社長。
メラメラと闘志が湧きました。
そして年が明けて、1月からフリーとなったのであります。

2006年3月12日 (日)

テレビに出る

プロダクションに所属して、そこに2年ほど世話になりました。
その2年間は、ナレーション以外の仕事も経験させてもらった。

そのひとつがTVCM出演。
どこのCMやったか^^;、忘れてしまったのですが^^;;
坊主の役やったと記憶してますが、これもええ加減なもので。
でも、撮影スタジオは覚えてますし、衣装を着たこと、カツラを被ったことも
覚えています。その時知り合った男のことも覚えている。でも、内容は・・・^^;

いつも思うんです、人の、或いは、僕の記憶の仕方の不思議さというか。
記憶というのは、経験した出来事のインパクトにも関係すると思いますが、
たぶん、そのCMの仕事は緊張していて、記憶の場所が混乱したままで、
出会った男というのは、その中で印象的で、ほっとさせてくれたのでしょう。

で、その仕事。
慣れない環境の中で、それなりに「演技」もして、とりあえずは乗り切りました。
ON AIRされたものも見たなあ・・・なのに何のTVCMだったかは覚えていない。
新人で、力量も大したことのない僕を、結構回りは気遣ってくれたように
思います。やりやすい空気を作ってくれたように。

その後も、VPと呼ぶ、ビデオ出演も幾つかありぃのですが、
テレビ出演ということで言えば、プロダクションを辞めてからさせていただいた、
「恐怖の百物語」という番組の司会が、今も大きなインパクトを残してくれています。
昨年、14年ぶりにDVDで復活!映像の中にいる自分は、とても若い&怖い^^;

「出演」することの、ある種メリットは、
こういう「映像で残ること」にあるのかもしれません。
気恥ずかしくも、「その日の自分」がそこに、
それも、放送されたという特殊な経験と共に。

2006年3月 6日 (月)

あれはバブル期だった

プロダクションに所属した1988年は、まさにバブル期。
秋以降、順調に僕の仕事も増えてきました。
振り返れば、「あんな下手くそで、よう仕事あったなあ」と思いますが、
それも好景気のお陰、ある意味「バブルの恩恵」に与ったということになります。
もちろん、その頃は「バブル経済」という認識はありませんでした。
また、仕事を始めたばかりで、それほど稼ぎもなく、実感としてはバブルでは
なかったなあ。

僕らの仕事は、大きく「司会」と「ナレーション」、「出演」に分けられます。
「司会」の仕事は、前にも書きましたが、結婚式やイベントの司会・進行。
絵のオークションの司会もやりました。
『シルクスクリーン』というものも、その仕事で知りまして。
絵に関して素人の僕が司会をするなんて、まあ、なんということでしょう^^;
一応、「それなりの顔」をして仕事に臨みましたし、
軽く勉強もしていきましたが。

「ナレーション」の仕事は、企業のリクルート用や商品PR用、
公共施設の館内用など、放送などはされないビデオのナレーション。
ああだこうだ、と説明するんですね。

ラジオCMやテレビCMのナレーション。
これは「声優」的な役割も担う時があります。
ちょっとした役をこなすんですが、それほど訓練をしていないので、
要領が掴めるまで結構「さぶい」^^;
それでも、現場で鍛えられるのは間違いありません。

テレビ番組のナレーションは、実力やキャリアが必要とされます。
テレビ局は基本的に冒険をしない。
新しい人材を自ら探すことは・・・まあ、ないです^^;
人の紹介でご縁が出来ていく、みたいな。
そのためには、それなりのキャリアがないと繋がっていかない。

タレントは、売り込みや、女の子なら「かわいい」でチャンスもありますが、
ナレーターというは、地味やなあ。抜擢、なんてのは、ほぼないと言える。
僕らの仕事は、「意外性」よりも、「計算内+α」が求められると思います。

「出演」については、次回に^0^

2006年3月 4日 (土)

司会の仕事はいやだった

「なんでも屋」として、色々と仕事をさせていただきました。
結婚式の司会・・・これがいやでね^^;
気は使うわ、仕事に変化はそれほどないわ、ホテルは業者扱いしてきよるわ、
言葉使いも気をつけなくてはいかんわなどなど、性には合ってませんでした。

あるホテルは「司会者は正面玄関からは入らず、業者入り口を使え」と
事務所に言うてきました。
それがけったくそ悪く(「気分を害した」みたいな意味^^;)、
僕は堂々と正面玄関からいつも入っていきました。
何度かそのホテルで仕事をしましたが、そのうち依頼は来なくなったなあ。
ええ、いいんです。負け惜しみではなく、それでよかった。

僕が思っていたのは、
「仕事は5分5分の立場である、業者とはいえ客とも対等である、
何故なら、僕は技術なりを売っていて、その対価としてお金をもらっているのである、
もちろんお金をいただいてお礼は十分に言う、しかし、少なくとも我々が下の立場では
ないし、お客様は神様なんかではない」と。

この考えは今も変わっていません。
ただ、これでも「大人」にはなりましたから、拘りは少なくなりました。
たまに失敬な方がいらっしゃいますが、そういう方とは自然と縁はなくなります。
僕の方に間違った考え方や落ち度がありすぎたのなら、
自然と仕事は無くなっていったでしょう。

確かに、あの頃は大した実力もないのに、身の丈以上のことを言ってました。
ようやく実力が伴うようになり、自分の身の丈がそれなりには掴めるようには
なりましたが、やはり若くして物事が解ったように錯覚して一歩踏み出さないで
いるよりは、解らない錯覚の方で良かった、と思っています。
ただし、リスクはあります。自分の実力がどこまで伸ばすことができるのか、
そもそも能力はあるのか。それは不安との付き合いでもありました。
こういう業界は簡単に見分けられますから。

2006年3月 2日 (木)

「なんでも屋」です

タレント斡旋の事務所に所属しまして、
僕のキャリアがようやくスタートしました。
ビデオの出演、ナレーション、結婚式やイベントの司会、
と、まあ、なんでも屋ですね、この手の仕事は。
さすがにテレビ番組のリポーターとかはありませんでしたが、
若い女性や男性で、見た目がOKな場合は、
そういう仕事ももちろんやってました、この事務所。
大阪だけでなく、東京でも、多くは「なんでもやります!」
的な売り方をしていると思います。

特に大阪は、吉本興業や松竹芸能という大きなプロダクションはありますが、
その他はそれほどでもありません。
テレビタレントで活躍するのは、やはり大手プロダクション2社の芸人さんですし、
僕のいたようなプロダクションは、そうやなあ、チャンスはないではないけれど、
「化ける」・・・つまり「売れる」てのは、やっぱり東京に行かないと無理かなあ。
一般の方々がイメージする「売れる」「有名」を望むのなら・・・。

それでも、仕事が多ければ、それなりには稼げます。
数は少ないけれど、芸人さんではなく、
司会や進行役でちゃんと稼いでいる方もいらっしゃいますし、
ナレーターという地味な仕事でも、「それなり」はあります。
ただ、ナレーターという仕事は、それほど勧められるもんではないなあ。
男が食う、食わせるためには、やはり「なんでも屋」で、
ということになるのが、通常と言えましょうか・・・。

2006年3月 1日 (水)

ようやくこの世界へ!

いわゆるタレント斡旋事務所に所属し、
ようやく「この世界」の入り口にたどり着いたのが、1988年5月頃。
即仕事、という訳にはもちろんいきませんでした。
それでも、夏ごろから少しずつ仕事が入るようになります。

初仕事は・・・はっきりと覚えていないんですね、これが^^;
印象的だった仕事は、8月だったと思いますが、原子力発電所の仕事です。
福井の美浜原発まで、1泊2日・・・これも曖昧な記憶なんやなあ^^;・・・で、出向き、
施設関係者という役どころで、「出演」したのです;;

作業着に着替え、ヘルメットをかぶり、施設内へ。
通常では経験できないエリアまで入っていき、覚えたセリフをしゃべる。
軽く放射線は受けた・・・たぶん・・・低レベルですが、もちろん。

原発施設の来場者案内用ビデオで、色々と施設のことなどを説明しました。
ビデオの内容はあんまり覚えていませんが、宿泊先の民宿で一緒に泊まった、
制作責任者のイビキの凄さを思い出します^^;

東京で半年ほど小演劇を経験し、
帰阪してから「そとばこまち」の10周年記念公演に参加(※この話もいずれ)
したとは言え、素人みたいな演技。
よくまあ、OKが出たものだと今では思いますが。

この後、徐々に仕事が増えていきます。
そして、「ナレーション」というものを経験していくわけです。

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