「コイズミ」という人間は、もはや特殊ではないのかもしれない
「野蛮な時代に逆戻り」と木島元長崎市長が
報道ステーションのインタビューで語っていました。
「野蛮な時代」とは、えらい昔の話・・・と感じましたが、
それはつまり「抑制が効かない」ということだとするならば、
近代化され、色んなことが進歩してきたにもかかわらず、
「人間の心」というものは、なんて脆弱なのか、
いや、「人間」とはいかに残虐な動物なのか、ということでありましょうか。
昭和34年生れの私が生きてきた50年ほどの経験と感覚は、
この数十年、大衆メディアは、あまりに「人間の良さ」ばかりを
甘い言葉で、偽善めいた言葉で、言い過ぎてきたように捉えています。
そして酷い事件が起るたびに、大騒ぎをし、
人間の本質を語ることなく表面的な話でその場を盛り上げてきた、
特に、この20年はその傾向が激しくなったように感じています。
殺人事件は、地jつは1960年代は今より多かったとか、
数字で見れば犯罪は減っているとか、
交通事故にしても、かつては死者1万人を何年間も越えていて
社会問題になりましたが、今や6千人ほどでしょうか、
数字は格段に減っています。
しかし日頃感じるのは、マナーの悪さ・・・どころではない、
傍若無人な運転、周りを威嚇する運転、車の仕様、運転手の風貌、
散見する小さな交通ルール違反や無視、偉そうに吠える違反者、
歩行者にしても酷い。自転車もまるで自分しか走っていないかのような・・・。
警察は警察で一向に信頼を回復できない、
何かを隠すかのようにテレビの前や、交通検問のときに見せる優しい顔、
しかしいざとなれば権力を傘に理不尽な行為もしてしまう。
政治家、官僚、企業・・・数えあげればキリがない・・・ということは、
全国民を挙げて、何がどうなったのか、タガが外れたのか、諦めたのか。
【歌が世に連れるのなら】
60年代の歌謡曲ブームは、戦後の落ち着きを見せた安心感か。
フォークブームは、目に見えた安心感に対する、目に見えないものへの反動か。
70年代半ばからのニューミュージック系による、優しさ謳歌は、
闘うことに疲れた団塊世代の息抜きか。
しかし、それ以降の恋愛花盛りは、経済大国となった自信か、
豊かさを心に求めだしたからか。
80年代半ばになり、時代を一瞬のうちに駆け抜けた尾崎豊は
何を伝えようとしたのか。
そして90年代。心の叫びを歌にするものがいて、
不満をラップに乗せるものが出て、
そしてある種、宗教的な感じさえするヒットメーカーがチャートを占める。
サザンは、桑田圭佑は、時代を読み取りながら、
そのメッセージを歌にしのばせながらも、
どこかリアルに時代と向き合うことはなかった・・・からこそ30年にも亘り
1線でいられた・・・そう、どこか自分は安全なところにいて、
軽くジャブをする・・・歌にそれ以上のことを求める気はない・・・。
阿久悠も、歌詞にメッセージを潜り込ませながら、
時代、時代を見事に切り取った。
時代を見事に見切った。
歌は世に連れ・・・ならば、歌に込められた意図せざるメッセージを
多くの人々は感じとっているのだろう、だからヒット曲が生れるのだろう。
コブクロに感じる嘘臭さは、時代が嘘臭いからかもしれない、
と改めて思うし、ミスチルにしても、楽曲は素晴しいと思う、いい歌だと思うが、
どこか「向こう側」におりそうに感じるのは、時代を敏感に嗅ぎ取る才能だからか。
槇原敬之は、現実逃避をしているのかもしれない。
ゆずは罪がない。
歌詞を重要に捉えているであろうソングライター達。
リアルな言葉を投げつければ、投げつけた方が投げつけられた者より
傷が深くなってしまう、そんな時代のように思う。